キャスリーン・フリン『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』書評

キャスリーン・フリン『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』を読んだ。日経新聞の文芸書ランキングでみかけた後に、どこかで書評を読んで購入したのだったとおもう。

クックパッドに岡根谷さんという人がいる。コミュニケーション能力の塊みたいな人で、休暇のたびに日本中や世界中を飛び回って、色々な人の家庭の食卓に混ぜてもらうということをしているみたいだ。私にはとても想像がつかないので、西尾維新の小説にでてくる世界中を飛び回る委員長みたいだと畏敬しているのだけれど、その人が社内ブログに書いた文章で印象的な一文があった。フィリピンのスラムの家庭で過ごしたときの話だ。

スラムでお世話になった家族の素敵なところは、自分もお金がないのに、他所から来た人間のために惜しみなくお金を使って食べ物を与えてくれることです。……(中略)……一方で、数日いるうちに、お金を使うことによってしか自らの生活を作ることができないという状況に恐怖を感じるようになりました。買ってきた食事で育った子どもたちは、お腹が空くとお金を持って道端のジャンクフードを買いに行きます。お金がなくなると、外に出てせびってお金をもらいます。……(中略)……同じ「お金がない」でも、ケニアの家族はお金に頼らずとも自らの生活を切り拓いていけるだけの力強さを感じるけれど、フィリピンのスラムの一家はお金に頼らないと生きていけない。

彼女は、フィリピンのスラムで生活する一家に金銭に頼らないと生きていけないあやうさを感じたという。自分たちの手で料理をつくるということをしない/できないから、ストリートフードをあがなうしかない。フィリピンの一家は、人間が本来的に持っているはずの「自らの生活を切り拓いていけるだけの力強さ」から遠ざけられてしまっている。

こういった光景は、フィリピンのスラムという貧困に根差している特殊事情かというと、どうもそのようではないようだ。

『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』は、アメリカのスーパーマーケットのエピソードから始まる。カートいっぱいの加工食品を買おうとしていた親子に著者が衝動的に声をかけ、加工食品の代わりにそれをつくるための材料とレシピを教え、感謝されたエピソードだ。

スーパーで出会った女性は調理に関して、自信も技術もなかった。彼女は自然食品をどのようにして食卓に出せばいいのかわからず、結果として、選択肢を少なくしていた。……(中略)……調理できなければ、財政面にしか興味のない企業の恩恵にあずかることしかできなくなる。

フィリピンのスラムのエピソードと、アメリカのスーパーマーケットのエピソードとは本当に似ている。

キャスリーン・フリンは、この経験から今まで「『料理できない』と思い込まされていた」人たちに向けて料理教室を始める。その記録が本書だ。参加者は、包丁の持ち方から始まって、野菜の切り方やソテーのやり方を学んでいく。料理を学ぶにつれて、参加者たちに変化が生まれてくる。

この本を読むと、料理を学ぶということが持つ普遍的な価値に気付く。料理をすることによって、自分が何を口にするのかを自分で決めることができるようになる。料理をすれば、加工食品よりも満足できる食事ができるし、ずっと健康的な食事をすることができる。

それって、私たちの祖先がずっとやってきたことなのに、今ではそれが難しいものになってしまっている。そのことに自覚的になるだけでも、大きな気付きだ。

この前、いつも買っている「博多風水炊きのスープ」の代わりに、手羽先の先からスープをつくってみた。手羽先の先は100円ちょっとで売っていて、それに生姜とネギ、水を加えてアクを取りながらぐらぐらと煮るだけ。市販のスープよりも、ずっと安くて健康的でおいしいスープができた。何も難しいことはなかった。

料理をするだけで、私たちはコントロールを取り戻すことができる。本当に素敵な一冊なので、ぜひ読んでほしい。


ここからは蛇足。原著のタイトルが『The Kitchen Counter Cooking School』って素敵なタイトルなのに、なんで悪趣味なテレビ番組みたいなタイトルにしちゃったんだろう。登場する料理教室の参加者たちは「ダメ女」なんかではないし、そう描写されてもいない。センセーショナルなタイトルが一定の注目を集める効果があるのは分かるものの、なんだか原著の趣旨に反しているようにも感じてしまう。