キーボードにこだわるということ

ソフトウェアエンジニアにとって、キーボードは仕事道具です。プロフェッショナルにとっての仕事道具とは、まさに、こだわりの対象であり、ソフトウェアエンジニアにとってのキーボードはこだわりの対象であるべき存在です。

最近でこそ、「こだわり」という言葉をポジティブな文脈で使うことが多くなってきています。しかしながら、本来「こだわり」は「気にしなくてもよいことまで拘泥する」というネガティブな表現でした。

その意味で、キーボードこそまさに原義に近いこだわりの道具です。バックリングスプリング式にこだわる人、静電容量無接点方式にこだわる人、そしてメカニカルキーボードにこだわる人。キーボードにまつわるさまざまな主義主張がそれを証明しています。日常的な仕事道具だからこそ、こうあるべきだという瑣末な違いについて、気になってしまうのです。

こうなるとキーボードにこだわりがないということですら、党派性を帯びてきます。「私はキーボードにこだわりません」という言明は、派閥に属さない一匹狼である自分を主張することになります。そういうものから自由である自分でありたい、だからこそこだわりを持たないのだというこだわりになってくるわけです。

つまり、ソフトウェアエンジニアである以上は、キーボードにこだわりがあろうが、なかろうが、キーボードから自由であることができないということです。これが、ソフトウェアエンジニアにとってのキーボードの本質です。

プロフェッショナリズムとキーボード

であれば、キーボードに対してどのような態度をとるのか、それこそがソフトウェアエンジニアにとっての試金石となってきます。キーボードについて、どこまで深く考えられているのか、それを行動に落とし込めているのか、それがその人のプロフェッショナリズムそのものになるわけです。かつて、池波正太郎は『男の作法』で語っていました。

万年筆というのは、男が外へ出て持っている場合は、それは男の武器だからねえ。刀のようなものだからねえ、ことにビジネスマンだったとしたらね。だから、それに金をはり込むということは一番立派なことだよね。

プロフェッショナルにとっての道具こそ武器です。ビジネスマンにとっての武器が万年筆なら、ソフトウェアエンジニアにとっての武器はキーボードです。となると、ソフトウェアエンジニアがキーボードに「金をはり込むということは一番立派なこと」なわけです。どれだけキーボードに正しく「金をはり込む」ことができるかによって、プロフェッショナルとして「立派なこと」ができているのかの証左となるのです。あなたは立派なことができていますか?

熟練とデフォルト

いやいや、キーボードにこだわるのは、まだまだ熟練していない証拠だ、弘法筆を選ばずというではないかという意見もあるでしょう。プロフェッショナルこそout-of-the-boxの状態でパフォーマンスできるべきだという主張です。

たしかに、ソフトウェアエンジニアとしてキャリアを積んでいくということは、さまざまな開発環境を経験することです。同僚とペアプログラミングをするときに、キーボードを選ぶようでは仕事になりません。データセンターの限られた環境ではキーボードにこだわることはできません。プロフェッショナルは、どんな場面であっても適応する必要があります。熟練すればするほど、こだわりを捨てて、「デフォルト」を選ぶようになっていくのです。

しかしながら、それは能力であって、自身が常にそうでなければならない、そうあるべきだという話ではありません。こだわりを捨てて、デフォルトを選ぶことが熟練だというのはとらわれです。何もデフォルトを選ばなくてもよいのです。そのとき、その場に応じて、適切なものを選べばよいというだけなのです。

こだわりを捨ててしまったソフトウェアエンジニアを見ると、私は『千と千尋の神隠し』に登場するカオナシを思い浮かべます。作品の中でカオナシは、徹底的に自己を持たない、他者の欲望によってのみ自分を証すことのできる存在として描かれます。宮崎駿監督はインタビューの中で「みんなの中にカオナシがいる」と話します。他者の欲望を内在化することによって、自身の存立するところを承認する、そういった欲求は誰もが持つものです。しかしながら、ただそれだけになるのはカオナシと同じ構造を感じてしまうのです。

「あなたは私が欲しいものを出せない」この千の拒絶の言葉こそが、解毒剤となります。カオナシが差し出す土塊の金を拒否するこの言葉は、あなたが私の欲望だとみなしている欲望は私の欲望ではないと、はっきり拒否する言葉です。

思い返してみると、そもそもソフトウェアエンジニアリングというのは難しいものです。そして、それに熟達するということは、もっと難しいことです。ダニエル・ピンクはその著書で「マスタリーは苦痛だ」ということを明らかにしています。「スポーツでも音楽でもビジネスでも、マスタリーには長期間(一週間とか一カ月ではなく10年間)にわたる努力(困難で、うんざりするような、つらい、全身全霊を傾けた努力)が必要とされる」のです。

それを乗り越えるために、内的動機付けが必要です。内的動機付けとは、金銭や名誉といった外部から与えられる動機付けではなく、自分自身の内側から湧く動機付けを指します。他者の欲求を拒否し、自身の始原的な欲求に従う動機です。ソフトウェアエンジニアとして熟練した人であれば誰もが、そのマスタリーの過程での苦痛を乗り越えるための資源とした欲求、自分だけの欲求、そういったものが必ずあったはずなのです。うるせ〜〜!!知らね〜〜〜!

そこに立ち戻ろうというのが、デフォルトを選ぶべきだという言説への処方箋です。ソフトウェアエンジニアとして熟達できたのであれば、必ず何らかのこだわりを持っていたはずです。熟達の過程でそこにとらわれる必要はないことに気付いていきます。デフォルトにおもねるわけです。だからといって、こだわりを捨てるというのは、自身を捨てるということです。とらわれることなくこだわりを持てばよい、それだけなのです。

とらわれと知ること

では、どのようにすればとらわれることなく、こだわりを持つことができるのでしょうか。とらわれることなく、キーボードに金をはり込むという一番立派なことができるようになるのでしょうか。そのためには、キーボードをありのままに見ることが必要です。そして、事実に基づいて正しく考え判断することも必要です。これはとても難しいことです。

メンブレンキーボードについて考えてみましょう。メンブレンキーボードは、安価なキーボードに採用されているため、あまりよくないものだという認識を持っている人も多いでしょう。メンブレンキーボードは、プロフェッショナルのこだわりの対象ではない、一般的にはそう考えられています。それは、キーボードをありのままに見て、正しく判断したことなのでしょうか。

メンブレンキーボードは、メンブレンスイッチを採用するキーボードのことを指します。メンブレンスイッチは、導電体が配置された2枚のシートによって入力を検知する仕組みです。キーの入力によってシートが押し下げられ、接触することで導通する仕組みになっています。メンブレンスイッチは電気的な接点の方式を指します。

メンブレンは、ただのスイッチの方式です。富士通のメンブレンスイッチであるLibertouchは、キーボード愛好家からも高い評価をうけています。IBM Enhanced Keyboard Model Mで採用されているバックリングスプリング機構もメンブレンスイッチを利用しています。メンブレンキーボードが悪いというのは、キーボードをありのままに見て、正しく判断したことなのでしょうか。

もう少し詳しい方であれば、Libertouchもバックリングスプリング機構もスプリングを使っているからよいのだ、ラバードームが悪いのだという意見の方もいるかもしれません。ラバードームがダメなのであれば、REALFORCEやHHKBはどうでしょうか。スプリングだからよい、ラバードームだから悪い、それは自分で判断したことなのでしょうか。

静電容量無接点方式も同様です。静電容量無接点方式は理論上でもチャタリングが発生しない方式であるから優れているとおっしゃる方がいます。プロフェッショナルとしてキーボードを利用していて、チャタリングに悩まされたという人はどれくらいいるでしょうか。それは本当に自分の悩みだったのでしょうか。

知ることと分かること

外部から押し付けられた価値観を押し退け、ありのままに見ること、それは本当に難しいことです。そのためには、正しく知るということが欠かせません。

ある人にとって同じようなキーボードが目の前にふたつあったとします。外見はまったく同じように見えて、その違いがないように見えます。このとき、ふたつのキーボードは同じキーボードになるでしょう。区別のつかないものは同じものなのです。

ところが、ふたつのキーボードのキースイッチを押してみたときに、ひとつは重く感じ、もうひとつは軽く感じたらどうでしょうか。このふたつは同じキーボードではなく、スイッチが重いキーボードと軽いキーボードになります。そして、それがCherry MX BlackとCherry MX Redの違いだと知ったときに、ふたつのキーボードは、キースイッチの違うキーボードとして認識できるようになります。これが分かるということです。分かるとは、分けられることです。

ふたつCherry MX Blackがあったとき、ひとつはスムースな感触で、ひとつはざらざらとした感触だったとしましょう。もしかしたら製造年代の違いかもしれません。1980年代に西ドイツで生産されたCherry MX BlackはVintage Blackと呼ばれ、現在生産されているCherry MX Blackよりも、スムースであることで知られています。スムースという分かりが生じるわけです。

また、同じくふたつのCherry MX Blackがあったときに、ふたつともスムースであるけれども、片方の方が重く感じたとします。ひとつがVintage Blackで、もうひとつは2018年に金型が更新されたばかりのときに生産されたRetooled Blackと呼ばれるCherry MX Blackかもしれません。製造年代によるスプリングの違いという分かりが生じるわけです。

もう少し考えてみましょう。ふたつのRetooled Blackがあったとします。それは同じものでしょうか。いいえ、そのようなことは無いはずです。同じ製造工程であっても、ばらつきが生まれます。両者を比べてみると、何かが違うはずです。しかしながら、その違いが何かをはっきりと指し示すことができない。これが、分からないということです。

グレゴリー・ベイトソンは「情報の基本単位は差異を生む差異として規定できる」と言っています。我々の感覚には限りがあるので、どんなに観察をしても物自体をありのままに認知することはできません。そのままの現象を認知することができないので、視覚や聴覚、触覚といった感覚器によって何らかを選択して認知をしているわけです。ひとつのキースイッチにある「無限数の潜在的事実」から「ある事実を絞り取る」こと、それが情報なのです。

情報は、人間の感覚器を通じてもたらされます。私たちはこのことを忘れがちです。あるものを人間の感覚器を使って分けたときの違いが情報であるはずなのに、情報そのものだけで満足してしまうのです。Cherry MX Blackの方がCherry MX RGB Blackよりも音がよいという情報があったときに、音で両者を区別できなくても満足してしまいます。分けることができないのであれば、分かっていないのです。正しく知るということは、自分でその情報を分かるようになること、そしてその限界を理解することです。

こだわりとキーボード

自分で分けることのできない違いではなく、自分で分けることのできる違いにもとづき、自分自身でそれを選びとっていくこと、それがこだわりです。自分で分けることのできない違いに惑わされること、それがとらわれです。

キーボードを巡るさまざまな言説があります。「A方式はB方式よりも優れている」「AよりもBの方が打鍵がスムースだ」「AはBよりも打鍵音がよい」など、こういった情報があったときには、自分で試して、自分の感覚で分けてみればいいだけです。そうすれば、自分で分けることのできない違いに惑わされることは無くなります。ただ、それは私のこだわりではない、そう言明すればよいのです。

そのような多くの試行を繰り返していくことで、自分自身のこだわりのかたちが見えてきます。自分自身の内側から湧く動機付けを見つめ直し、ソフトウェアエンジニアにとってキーボードに「金をはり込むということは一番立派なこと」であると認識する。キーボードにこだわるとは、ただそれだけのことなのです。


本稿は 技術書典7で発表された合同誌 へ寄稿した文章の転載です。